バリ絵画の世界

すべての物事はつながっている

バリ絵画のスタイル
アンリ・ルソーHenri Rousseau(フランス)
バリ絵画と直接的な関わりはないが、彼の絵画に影響を受けた画家が、バリで絵画を教えるというかたちで、スタイル創作に関わった。
絵の特徴は、立体的なものを平面的に描いているところである。一枚の絵に、いろいろな表現法を取り入れ、目に映るものを重視したといわれる。これらは、バリ絵画に共通する特徴である。たとえば、奥行きのある風景であるにもかかわらず、それらが平面に等価に押し出されたような錯覚をさせる。


1844年、ラヴァルに生まれる。
1872年ごろ、独学で絵を描き始める。
その後、作品を発表していく。
代表作品:「蛇使いの女」「夢」

ヴァルター・シュピースWalter Spies(ドイツ)
上記、アンリ・ルソーの絵画に影響を受けた芸術家である。シュピースがルソーの絵を見たのは、第一次世界大戦後である。

1895年、ドイツ領時を父としてモスクワに生まれる。恵まれた家庭環境のなかで、音楽を学ぶ。
1910年、ドイツのドレスデンで教育を受ける。絵画への関心が高まる。第一次大戦後、ベルリンやドレスデンに住む、芸術家集団「11月グループ」との交流を深める。このころ、ルソーの絵画に出会う。
1920年、ベルリンで舞台芸術、映画産業で働く。映画監督のムルナウと共同作業を行う。また、オランダで個展を開き、大成功をおさめる。

1923年、個展での縁により、当時のオランダ領のジャワ島に向かう。ジョグジャカルタの宮廷音楽長となる。その後、バリ島に移り、族長チョコルダ・グデ・アグンの招きを受け、ウブド村に滞在し、バリ人へ西洋絵画の遠近法や素材、テーマについて教える。
1936年、地元の画家たちと芸術組織「ピタ・マハ」を設立する。展覧会をバリ内外で開催し、成功をおさめた。
1942年、第二次世界大戦中、ドイツ人捕虜として移送される際、船が日本軍の爆撃により沈没する。享年46歳であった。


ルドルフ・ボネRudolf Bonnet(オランダ)
ヴァルター・シュピースとともに、「ピタ・マハ」を立ち上げた画家である。バリで40年以上を過ごす。
1895年、オランダに生まれる。
学生のころ、絵画学校で学ぶ。
1920年からイタリアに滞在する。シエナでフレスコ画に衝撃を受ける。
イラストレーターのニューエンカンプから初めて、バリについての話を聞く。
1928年、チュニジアへ行く。
1929年、バリへ行く。初めの2ヶ月をタンパクシリンで過ごし、その後プリアタン村で暮らす。
シュピースが音楽や演劇など、さまざまな分野に興味を持って取り組んだのとは違い、ボネの関心は、美術のみにあった。
そのため、彼は美術全般を対象とした組織「ピタ・マハ」では、もっとも重要な原動力となった。
1943年〜、第二次世界大戦中、スラウェシ島などいろいろな場所で過ごすことになる。

第二次世界大戦後の1947年、ボネはウブド戻り、ピタ・マハと似たような組織ゴロンガン プルキス ウブド(Golingan Pelukis Ubud)をつくった(1951年)。この組織の参加者はウブドからのアーティストに限られた。しかし、狭い市場であったうえ、戦後の生活の困難さと不安全によってうまくいかなかった。しかし、彼の活動はほかの村のアーティストたちにも影響を与えた。
1958年、イタリアに戻る。
1973年、バリへ戻り、プリ・ルキサン美術館の絵画コレクションをそろえるために努力した。

アリー・スミットArie Smit(オランダ)
ヤングアーティストスタイルを生み出す原動力者となる。
1916年、オランダに生まれる。
ロッテルダムの美術アカデミーで絵を学ぶ。
1957年、インドネシアのバンドンに滞在ののち、バリのプネスタナン村に定住する。
バリ人の子供が描いていた砂絵にひきつけられ、絵画レッスンをはじめる。明るく、鮮やかな色合いで厚みのある色調を作り出した。

マーガレット・ミードMargaret Mead(アメリカ)
グレゴリー・ベイトソンGregory Bateson(アメリカ)
1930年よりバリに滞在した、人類学者である。主にバトゥアン村に住み、研究のため、画家に絵を描くよう注文した。
彼らはバリ人の精神を知ろうと努め、バトゥアンのアーティストたちに霊魂の見えない世界を厳密に調べるよう促した。


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