2004年05月30日

小学生のときから使っているもの。

ずいぶん前の話なんですが、目覚し時計が (ひとつ) 壊れました。
それから、ずっと新しい目覚し時計を買っていません。
かれこれ半年になるでしょうか?
一つ減った目覚まし時計。

私はあさ、なかなか目が覚めない人なのに、
なんで、新しい目覚し時計を買わないのか、最近思い出しました。
それは「代替となるものがないから」

壊れた目覚し時計は、私が小学校二年生からずっと使っている、
ミッキーマウスの目覚し時計。
何度か修理しつつも、とうとう役目を終えた目覚し時計でしたが、
私は平気な顔で不燃物へとだしました。
ですが、それは、ただの「一つの事実」でしかないのです。
それは、代替となるもののない、ただ一つの目覚し時計。

小学生のころの記憶はほとんど残っていません。
思い出と呼べる、大きな記憶以外のほとんどを忘れているため、
ただ、愛着と日常的な存在感だけが残った時計でした。
でも、だからこそ、大切なもの。
空気のように、「存在することを日常」とするほど、大切なもの。
日常こそ、心を偽りつづけることのできないものだから。

口にだすと、たいした思いではないように見えるのかもしれません。
私が「大事な思いこそ、自分だけのものにする」からかもしれません。
それは他人にとって、冷たさであり、理であり、
論理であり、思いではないもの、だったのでしょう。

私は誰かにこの思いを伝えたいのでしょうか?
わかってほしいのでしょうか?
それとも、これはただのパフォーマンス?
それもわかりません。
ただ、わかっているのは、
わかったようなフリして近づく人が、
たまらなく私に嫌悪感を抱かせることだけ。

一体私の思いはどこに行くのでしょう?
ただの「目覚し時計」に飛ぶこころは、とても懐かしい気分でした。
もう、手にすることのできない時計。
なのに、触れることができるほど、詳細にイメージできる大切な時計。

もしかしたら私はもう目覚し時計を買わないのかも知れません・・・。

Posted by k-square : 2004年05月30日 00:58 | Other
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