バリ絵画の世界

バリ島の歴史
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2005年7月4日(月)
バリ家族との夕げ
昨年の8月以来、ほぼ1年ぶりにバリ島の地を踏む。7月の太陽はじりじりと熱く、けれどときおり吹く風が気持ちいい。この時期は乾期にあたり、風がよく吹く。凧揚げにはもってこいの季節で、空を見上げると凧がいくつも上がっているのをたびたび目にする。バリの凧は日本のように平面的な紙に描かれていることは少なく、立体で鳥や蝶々の形をしたものや、原色の派手な色使いのものが多い。なかにはロボット型もあっておもしろい。凧屋さんもたくさんある。テレビでは凧あげ大会の中継などもやっている。フルーツは雨期と比べるととても少ないのだが、蛇の皮のような表皮で中はクリーム色でさくさくした酸味のきいたリンゴのような果物サラックやら、スイカ、バナナ、オレンジ、ぶどうなどが美味しい。私はサラックが大好きなのでよくバッグに1個か2個忍ばせて、旅の道中によく食べていた。

夕方、バリ島のデンパサール空港に到着した。
前年お世話になった旅行会社の、運転手さんである友達ワヤンに車で迎えにきてもらった。小学1年生になったばかりの娘とたしか小学3年の息子とそのお友達も一緒だった。空港で久しぶりの再会に子供達もワヤンも私も大喜びだった。夕飯どきだったのでどうしようかと考えていたら「弟夫婦の家がデンパサールにあるからそこでごはん食べていきなよ!」と誘われてお呼ばれすることになった。バリの家は大きな敷地内にいくつかの棟があってそれぞれに一家が住むことで成り立っている。家の敷地には必ずお寺があり、といっても日本でいう神棚のようなものが大きくなって外にあるような感じなのだが、お祭や祝い事があると飾り付けてお参りする。ワヤンの弟夫婦の場合は少し特殊で、大家族で共同生活をすることなく、個別に家を借りて住んでいる。実家の一区画を今立て直し中なのだそうだ。その間、仮住まいするらしい。

お邪魔すると日本の家のような木造建築でなんだかなごむ。床に敷かれたござの上にみんなで座り、おしゃべりした。ワヤンの弟と奥さんのプトゥさんとそのお母さんといとこさんと生まれたばかりの赤ちゃんがいてとてもにぎやかだ。ワヤンの子供たちもはしゃいでおもちゃで遊んでいる。しばらくしてお皿にごはんと野菜とお肉が盛られた夕飯が出てきた。それを手でぱくぱくいただく。しかしこれが本当に辛い!1年ぶりにバリの家庭料理の辛さを思い出した。口の中がひりひりして舌もすでに麻痺している。水がコップにたくさんつがれているけれど、ここで水を飲んでしまうともっと辛さに耐えられなくなってしまうので、食べきるまで辛いけれど我慢しなければならない。涙をのみつつ、初日からやられた!と思いながらもとうとうバリに来たんだなあとこんなところで実感した。

食事が終わって、ワヤン弟のマデさんが携帯会社に勤めているということで携帯電話を買う話になる。値段交渉になって、電話できればいいから一番安いのでお願いする。バリ人はほとんどの人が携帯電話を持っている。カメラ付き携帯も人気で値段はかなりするのだけれど普及しているようだ。私はメールと電話機能がついたシンプルな携帯を購入した。メーカーは、日本でも最近出回っているノキアだ。ワヤンの仲介料も込みで700000ルピアだった。日本円にして、約7200円というところか。携帯電話はバリではかなり高いのだ。なので安めの中古電話がたくさん出回っている。それでも3・4000円はするようだ。電話代はプルサという単位で支払う。日本のテレホンカードの度数みたいなものだ。プルサはチャージできるようになっていて、50000ルピア分くらいのプルサを購入して電話に入れた。これでそんなに長電話でもしなければ1ヶ月は持つとのこと。さっそくみんなと電話番号とメールアドレスの交換をした。なんだか楽しい。

この日の夜は日本から予約したはずのホテルに行ったら満員だと言われ、大慌てで他の宿を探して大変だった。今回のバリ滞在目的のひとつは、デンパサールの国立芸術大学で開催されている、年に1度の芸術祭「アートフェスティバル」に行くことだった。それで私は会場近くの宿をワヤンに探してもらい、ロスメン(安宿)を見つけて泊まった。ここから2週間ほぼ毎日フェスティバル会場に通った。朝、昼、夜のほぼ三回に分けて島内の選抜されたダンスグループの踊りやお芝居が大学内のいくつかの講堂や野外ステージで見られる。伝統舞踊やお芝居や楽器演奏がメインになっているが、バリ島の美男美女コンテストも開催される。同じ時間帯に別々の施設で踊りやワークショップが行われていることもあり、私は日本で印刷してきたプログラムを見ながら、何を観ようか決めていた。