バリ絵画の世界

バリ島の歴史
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2005年7月21日(木)
シンガラジャ旅行

ウブドのレストハウスには3日間ほど滞在し、私はワヤンとその妹のコマンちゃんと北部へ旅行に、Sは南の海へと旅立つことになった。宿の人とSとに別れを告げ、北部へと向かった。

北部はシンガラジャという地域で、古くはオランダの占領下で影響をもっともよく受けたところだ。
道も整備され、西洋風のホテルやバンガローがビーチ沿いにぽつぽつと立つ。
仏教遺跡も多く、ヒンドゥー教と仏教との混ざったような建築物やお寺があって魅力的だ。
けれど、空港のあるデンパサールからは車で3時間と遠いため、訪れる観光客は少ない。そのぶん、のんびりとくつろいだ時間を過ごせる。

私たち、3人は車に乗って、バリ島中部のウブド村を出発し、避暑地として観光客がたくさん訪れるキンタマーニ高原を通って北のシンガラジャへ向かった。山あいの道をくねくねと曲がり、美しい青い稲穂が風にたなびく田んぼ沿いの道を通り過ぎる。途中、持ってきたぶどうやナンカを分け合いながら、たわいもない話でもりあがりつつ進む道のりはとても楽しい。コマンさんはシンガラジャへ行ったことがなく、なかなか遠出する機会もないので通っているパソコン教室を休んで旅行することになった。けれど、長旅で疲れてしまったらしく、「まだ着かないの?疲れたよー!」と途中から愚痴りだした。兄であるワヤンはそれを「もうすぐだって!がまんしなさい!」となだめつつ。ようやっと、シンガラジャへ到着した。

道がひろくて、人も少ない。海のそばなので、ヤシの木が道路脇に並んでいる。日本の熱海あたりにこんな風景があったような。もう日も暮れていたので、バンガローに荷物をおいてすぐ夕食を食べに、海のほうへ歩いた。黒い海にザザーンと波の音。雲に隠れるか隠れないかのおぼろ月夜だった。海岸にはイルカの像がたつ。ここはドルフィンウォッチングで有名な海なのだ。そのイルカ像のもとにあった、屋台で夕飯を食べることになった。焼き鳥に白いごはんを頼む。それにピーナツソースのかかった厚揚げのようなルンピアンを何個か付けてもらって3人で分けて食べた。焼き鳥には唐辛子の辛いソースがついていて、かなり辛かったのだけれど美味しかった。長い車旅から解放されてほっとしていたコマンさんは調子にのって「あたし青とうがらし食べる!」と屋台の机の上にあった、山もりの青とうがらしをつまんで食べ出した。「辛いよ!死んじゃうよ!」私がびっくりして言うと。「辛くないよ!」とぱくぱく。さすがバリ人だなあと驚いていたら、少しして「辛い!!水!水!」と騒ぎ出した。だから辛いっていったのに、と呆れつつも、バリ人でも青とうがらしはやっぱり辛いと思うことにちょっと親近感がわく。


広くてゆったりとしたバンガローに泊まり、翌朝はパンケーキの朝食を階段に座って3人でむしゃむしゃ食べた。甘くて美味しい。アリが集まってくるので、それを払いながら食べる。そうして、朝から温泉へ出かける。火山があるバリでは3箇所ほど温泉スポットがある。北側にあるのが、イエ・パナスだ。水着を着て入るのだが、日本人の感覚でいう温泉と違い、源泉を水で薄めてあるので、温水プールに入るような感覚だ。ヤシや南国植物が生い茂る中に温泉がわき出ている。太陽の光をあびながら、沐浴という感じだ。石像の口から温泉が流れ出ていて、それを浴びて体全体を清める。頭のてっぺんから清める。バリ人は30分くらい浴び続けている。私はのぼせそうだった。広くて泳げるところもあり、何人かが泳いでいた。本当にプール施設のようだった。駐車場から温泉までの短い道沿いにはおみやげやが数軒並んでいて、涼しげなワンピースやサロン(腰巻き)などが売られている。サルの子供が首にひもをつけられて軒先で売られている。近づくとキャッキャと飛び跳ねてかわいいが、ちょっとかわいそうでもあった。

温泉の近くにある、規模はとても小さいがジャワ島のボロブドゥール遺跡を思い起こさせるような仏教寺院を訪ね、参拝する。高台にあるので、海が見わたせてとても気持ちがよい。太陽も高くのぼって暑くなってきた。コマンさんの知り合いのイギリス人が近くのホテルに住んでいるというので、寄り道する。コマンさんは以前、英語の先生をしていてそのときの知り合いのようだ。ホテルの部屋のバルコニーに招かれ、お茶を飲みながらしばし歓談した。彼は、20年くらい前にバリに来て大好きになり、今はホテルを作る計画を立てているという。そこでなぜか、コマンさんが私を指さして「ホテルができたら、彼女をそこでぜひとも雇ってあげてください!」と頼むので慌てた。たしかにバリで働くのも短期間だったら面白そうなのだけれど。

お昼は小さな売店を兼ねた喫茶店のようなところでナシチャンプルを食べる。相変わらず辛い。肉と野菜とごはんとが混ざってヤシの葉に盛られてやってくる。甘いお茶「チェ・ボトル」を飲み、すっかりお腹いっぱいになって、けれどお金は日本円でいう100円ぐらいだ。ちなみに、この旅行は宿泊代から食事代とガソリン代まで、車で案内してもらう代わりに私が3人分をすべて負担している。それでも大きな出費にはならない物価だ。

そうして午後は、バリの古文書であるロンタル博物館へ行く。ここにはたくさんのロンタルが集められ、保管されている。魔術に関するものから、お祭りについてやお供えについてなど、分野ごとに分けられて木箱に収められている。シュロの葉に墨をすり込んで書かれるのだが、腐敗がすすんでおり、読めなくなる前に今はすべてのロンタルのコピー制作がなされている。これがまた大変な作業だそうだ。一字一句を写し取り、ロンタルをつくっていく。ロンタルに刻まれた文字は古代のバリ文字で、読める人はバリ人でもごくわずかだ。バリの絵とともにつづられている。雨を降らす方法だとか、頭が良くなる方法だとかあるらしい。かなり気になる。いつか日本語に訳されて出版してほしいものだ。ロンタル解読者の方にバリ文字のお手本とインドネシア語訳をいただいたので、文字だけでも読めるようになれたらいいなと思っている。

さて、この日の最大の目的はデンパサール滞在中に仲良くなったまだ、小学校6年の少年に写真を持って会いに行くことだった。あいまいな住所と名前をたよりに、車で田舎道をがたがたゆられながら進んだ。いろいろな人にワヤンが尋ねてくれ、ようやくたどり着いた村は、土壁とほこりにまみれていて、けれど元気な子供達の笑顔が印象的なところだった。車から降りると、仲良しだった少年、アンガールダナが走ってきた。「○○○!来てくれたんだね!うちに来てよ!」さっそく遊びに行くと、そこは隙間風がひゅうひゅう入り、床は石と土でまみれた小さなおうちだった。そこにお父さんとおじいさんとおばあさんとで住んでいる。お母さんは小さい頃に病気で亡くなっている。写真を渡すと石に腰掛けて、きゃあきゃあいいながらアンガールダナはアルバムをめくった。その嬉しそうな笑顔を見ていて来てほんとうに良かったなあと思った。そのあと、村のお寺や高台散歩をし、村の少年たちと出会って似顔絵を描いてあげたり、お話したりして過ごした。だいぶ時間を過ごしたころ、アンガールダナの家で待っていたワヤンたちから戻ってくるように言われ、なごり惜しくアンガールダナと家へと向かった。「またいつでも来てね。電話するからね」私の携帯番号を書いた紙を握りしめてアンガールダナが言った。デンパサールで一度教えたのだけれど、番号を書いた紙をなくしてしまったらしい。あれから何度か電話をもらっていたのだけれど、ふつりとこなくなってどうしたのかと思っていたのだった。帰りの車のなかで、ワヤンとコマンさんは「あんなに貧しい村だとは思わなかったよ!びっくりしたよ。バリにはいろんな村があるけれどあそこまでのはなかなかないよ」とわあわあ騒いでいる。「でもみんないきいきしていたよね」私がいうと「中学校とかに行けない子供はでもかわいそうだよ」と。私たちは複雑な気持ちの帰り道だった。なにがいいのか、悪いのか、わからない。なにかしてあげれば良かったのだろうか、そう考えて悩んだこともあった。けれど今は、私はそこに住んでいる人たちが幸せを感じているのだったらそれでいいのだと思う。外から見た基準にあてはめるのじゃなくて、その中にある人たちがどう思うかが大切だと思う。気持ちを大切にしていれば、きっとよりよい未来になる。そう信じている。

帰りの山道では大雨が降った。そんななか、お祭りが行われていて車が大渋滞だった。持ってきたみかんを食べつつ、ウブドへと戻る。2日間の短い旅だったけれど、いろんな体験をしていろいろ考えた。バリ人との泊まり旅行もなんだか新鮮だったし、いろんな場所へ行って、いろんな考え方があることも知ったし。バリ人というより、ほんとうに友達との旅行といった感覚に近い。バリ人を意識しなくなるというか。そして私も日本人を意識しなくなるほど、バリに自然に溶け込め、受け入れてもらった。