バリ絵画の世界

  すべての物事はつながっている

バリ絵画のスタイル
第二次世界大戦後と戦前のアーティストの間には、重要な違いがある。
戦前では宗教的な生活と義務の一部として、自然に芸術的な能力を身に付けられる環境があった。技術を発展させることや、新しい物を生み出すことに夢中になることができた。
 
戦後、芸術の社会的な背景が安定した。観光地としてバリ島が世界各地から注目されることで、宗教芸術でなく、生活の糧としての芸術が生み出された。

戦前、オランダの統治下
、バリ絵画の水準を保つことを目的として、1936年1月にウブドでピタ・マハ協会が設立された。ピタ・マハとは”偉大な先祖”という意味の言葉であり、古代カウィ語で神ブラフマを意味する。ブラフマが創造の過程をつかさどる神であることにちなんで命名された。この協会に先立って、シンガラジャにある、ロンタル古文書図書館(1928年)が、バリ人の伝統芸術作品が観光客に売られてしまうことを恐れた、オランダ政府によって建てられている。ここではバリの古文書であるロンタルが集められている。

ピタ・マハ協会の最初の会長は、イダ・バグース・プトゥ(Ida Bagus Putu)である。彼の秘書はジョコルダ・グデ・ライ(Tjokorda Gede Rai)である。当初のメンバーは、ジョコルダ・グデ・アグン・スカワティ(Tjokorda Gede Agung Sukawati)、イ・グスティ・ニョマン・レンパッド(I Gusuti Nyoman Lempad)、ヴァルター・シュピース(Walter Spies)、ルドルフ・ボネ(Rudolf Bonnet)である。


この組織に参加したアーティストたちの数は、120から150名にのぼる。組織がアーティストの代わりに絵画を売り、売れるといくらかのコミッションをアーティストたちは得ることができた。

組織の集まりは、週に1回、ウブドの東部にある、シュピースの家で行われた。この集まりの主な目的は、展覧会のための作品を選ぶことであった。ピタ・マハ協会の名声は、アーティストたちのの作品の質に応じた、販売とマーケティングによるものである。
初めての展覧会は1936年、ジャワ島のジョグジャカルタで開かれた。その後、オランダやパリ、ニューヨーク、名古屋、インドの個人的なギャラリーからヨーロッパなどで行われた。いずれも、商業的に成功した。

しかし、1939年以降、その活動は衰退する。中心的な存在であった、シュピースが逮捕されたこと、活動家なき組織を残しての、ボネの辞任の影響が大きい。ついに、1942年、ピタ・マハ協会は解散する。


第二次世界大戦後の1947年、ボネはウブド戻り、ピタ・マハと似たような組織ゴロンガン プルキス ウブド(Golingan Pelukis Ubud)をつくった(1951年)。この組織の参加者はウブドからのアーティストに限られた。しかし、狭い市場であったうえ、戦後の生活の困難さと不安全によってうまくいかなかった。

戦後、ピタ・マハの先駆者たちは、新しい世代の指導者となった。バリアートの移り変わりは、観光業の成長を反映した。
とくに1965年から、彫刻や絵画は生活の糧として生み出される。
絵画においては、ウブドのアーティストたちは、プンゴセカン村をのぞいて、ピタ・マハ時代のやり方を引き継いだ。